きゃっと叫んでロクロ首


恥ずかしい記憶が、不意に蘇った時の心持ち。

子どもの頃のハゲしい勘違いを、イイ年になってもそのまま抱えていることがある。そりゃあもう、よくある。それがどこかで勘違いだとわかったりする。そのときも恥ずかしい。しかし、後にそれを思い出すのがまた恥ずかしい。
あるいは、それが間違いだと知る前に、そういうハゲしい勘違いをとくとくと友人に「正しい知識」として披瀝していたりすることがある。知ったかぶりの一種だな。前記のような体験を経てから、その「間違ったご高説を垂れている自分」が思い出されたりすると、さらに恥ずかしい。それはもう、とんでもなく恥ずかしい。
最悪なのは、そういう若気の至りやなんかが、不意に思い出されるときだ。トートツに、なんの脈絡もなく。
脈絡がなければないほど、不意打ちによって破壊力が増し、「うわあああ」と叫び出したいような恥ずかしさに襲われることになる。

思い出した瞬間の、身がすくむような、身が縮むような、ハゲしく落ち着かない気持ち。
あれが「きゃっと叫んでロクロ首」なんである。
「ロクロ首」というのは首が伸びる、こっちは身がすくむ。そうなんだ。そうなんだけど、首が伸びるっていう感じ、しかもそれが「ロクロ首」というあり得なさ。これはあの硬直するような感覚を言い得ていて単に「身がすくむ」の何百倍も実感がこもっている気がする。自分でも滑稽に思うような風情も、ちゃんと入っているではないか。秀逸な言い回しだなあ。

これ、確か、吉行淳之介で読んだ。安岡章太郎のフレーズとして紹介されていたような記憶があるのだけど、定かでない。
山口瞳が先輩作家のフレーズとして使っているようだし、評論家の平野謙が使っているというヒトもいる。実は意外とポピュラーな言い回しなのか?
しかし、実際の文脈ではどう使ったらいいんだ? 「そのとき、きゃっと叫んでロクロ首になった気がした」ってか? ちがうよなあ。「これが『きゃっと叫んでロクロ首』だと思った」というような使い方以外に、ちょっと文例を思いつかない(笑)

Posted: 日 - 2月 13, 2005 at 11:57 午後            


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