Comic Writerではなかった「相克と本音のマンガ家」青木雄二死去


9/5、『ナニワ金融道』の青木雄二が肺ガンで死去。
『ナニ金』連載終了とともに「漫画家を卒業」とうそぶくなど、作風同様にトゲのある、マンガ界においては独特のポジションの人だった。
どういうわけか一般紙よりもスポーツ紙が経歴などを詳しく載せている。BIGLOBE(サンケイスポーツ)ニュース日刊スポーツ

『ナニワ金融道』以前にデビューしていたらしい(26歳での処女作『屋台』が70年[S45]ビッグコミック新人賞・佳作)のだが、そのころから『ナニ金』連載開始前年の『五十億円の約束手形』(コミックモーニング四季賞受賞作。88年[H1])までの作品がどうだったのかは記事では触れられていない。私も、70年の『屋台』はともかく、88年の『五十億円の約束手形』は目にしていてもおかしくないのだが、何も記憶にない。『ナニ金』以前の作品はほとんど知られていないと言っていいだろう(ひょっとすると、商業誌にはこれだけしか発表されていなかったのかもしれないとも思う。エロ劇画などを描けそうにもない画風が幸いだったのか不幸だったのか)。
記事でも、彼自身のエッセイなどでも、この時期は各種の仕事を転々としていたことになっている。あまり描いていなかった可能性もある。

通例は、ある作家が人気が出ると、それ以前の作品も単行本化されるものだが、そういう動きもなかったようだ。『ナニ金』以前の作品を探して読もうとする「マンガ家・青木」のファンも少なかったのだろう。飽くまで『ナニワ金融道』だけが青木雄二なのだ。

石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』以来、情報マンガと呼ばれるジャンルが勢いづいた。『ナニワ金融道』も、数多あるその系列の作品ととらえて構わないだろう。異質なのは、おそらく『ナニ金』は手法ではなかった、青木雄二は『ナニ金』しか書けなかった、書く気がなかっただろうことにある。同じ手法で別のものを扱うことはいくらでもできることを青木自身も指摘・自覚しながら、弟子たちにその仕事を任せ、本人は経済評論家へと脱皮した(あるいは脱皮しようとした)ことがそれを現していると言うのは乱暴か。作家としてのマンガ家でも職人としてのマンガ家でもなかったのかもしれない。敢えて言えば「怨念としてのマンガ家」だったのではないか。

彼がマンガを「表現の手段」としてではなく「生活(あるいは成り上がり)の手段」と考えていたことを、自身のエッセイで読んだ記憶がある。デザイン事務所を経営していた時代の話からは、画稿としてのマンガ制作の技術が活かすことができたというような記述もあったと記憶している。そこに皮肉を感じるのは過剰な感傷か。
いわゆる巧みなマンガ家ではなかった。地を這うような生活者のくそリアリズムとアイロニー(なぜ固有名詞はすべて下ネタで命名される必要があるのか)、机の上からは身に付かない「リアル経済」の姿、この2点だけが彼の武器だった。
彼の絵は、後年は独自の画風と言えるかもしれないが、少なくとも『ナニ金』連載開始当初はキャリアの長さに比すると単にヘタであったと言っていい。「マンガとしての完成された描画とは」なんてことを考える人間を「うわっ」とひるませるほどの絵のヘタさとパワーだ。谷岡ヤスジにも似ているかもしれないが、ああいう突き抜けたアナーキズムまでは達していない。生活者としての別なアナーキズムは谷岡を凌駕するとしても、それは「身もふたもない」だけだとも言える。十分に芸の域には達してはいなかった。
ベタなストーリーは、それがリアルさを産んではいたものの、ストーリーテラーとして自負できるような世界ではなかった。
マンガ表現の幅が膨大に広がっている現在、青木雄二は孤独な一代限りの河内音頭だったのかなあ、などとも思う。

「生活(あるいは成り上がり)の手段」というのが真意なのか韜晦だったのか、もはや確認する術は失われた。ただ、青木氏が発する「知識」や「ノウハウ」といった情報、「生々しさ」といった手触りのファンの膨大さと、「マンガ家・青木の過去の作品群が現れないこと」を考え併せると、彼の作品は、マンガという形式をとってはいたもの「なにか異質なもの」だった、マンガプロパーの考えるマンガではなかった、ということかもしれない。
となると、「純文学」に対応する形で「純マンガ」などというのではなく、別の軸が必要なことを示してもいるのだろう(ちょうど「ロック」という音楽ジャンルが、なにが必要条件なのかということがいつの時代にも問われるように)。

ある意味で彼と同質のマンガ家に『東京ラブストーリー』などの柴門ふみがいる。
彼女の場合は、トレンディドラマの原作者として彼女を知り、その作品を過去まで遡って買い集めるファンがもちろんいるだろう。
また、79年のデビューから2年後、『P.S. 元気です、俊平』(単行本は81年[S56]に第一巻初版)で早くから一定の評価を得、ほとんど途切れることなく作品を発表する場にめぐまれたような印象がある(だが、実際にはどうであったか。70〜80年代に、男性誌を舞台に活動する女性マンガ家が楽であろうはずもないとも思う)。
マンガ史には、彼女の場合は作品群が記憶され、青木雄二は『ナニ金』ひとつが記憶されるか、あるいは記憶から消されてしまうか。
しかし、彼女もまた、確かエッセイ集『おしゃべりな目玉焼き』で、「文学ができないからマンガ」「マンガは文学よりも下」といった内容のことを、自己卑下や自嘲というよりはマンガ読者を小馬鹿にするようにも読める筆致で書いていたことが思い起こされるのだ。

青木雄二がマンガに愛情を抱いていたかどうかは、わからない。愛憎半ばする、というところだったのだろうか、とも思う。柴門は(まだ現在進行形であるから過去形にはならないかもしれない、というだけで)やはり真意は不明だ。
マンガを愛しつつ、マンガプロパーを憎む、といった類型で彼らをくくるのは安直だろう。しかし、マンガプロパーからの扱われ方がどのように違おうとも、マンガに対する思いでは両者には共通するものがあるのではないだろうか。

Posted: 日 - 9月 7, 2003 at 12:09 午後            


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