12歳のよい子を考える


今回の長崎での事件については、いまさらここで語らなくてもあらゆるところであらゆる人が語っています。
でも、覚えておかなくてはならないことだ。そう思うのであれこれの思いを書き留めておきます。

ウチには小5のムスメがいます。来月、誕生日が来ると11歳です。
わが家では「12歳って、この間まで小学生だったってことじゃないの!」って、事実上、小学生が引き起こしたことのように受け止めてしまいました。

6年前の神戸の事件は、個人的には、まだ構図が理解できた気がするのですが、今度の事件は、もう完全に虚を突かれた気がします。
図式としては、報道でいうように過保護・過干渉や、さまざまなストレス、性的な衝動が関わっているであろうことまでは理解できても、その鬱積したものが12歳でこんな形で発現してしまうって……もう少し歳が上になっても、せいぜい軽犯罪や小動物の虐待、実行できない自殺や親殺し・学校の焼き打ちとかを夢想するとか、そんなレベル止まりなもんじゃないですか。そうじゃないっていうのは、決定的に何かが違ってしまっているんですね。いまさらですが。
そして、その何かが見えない。

加害者の親に関して暴言を吐いた大臣も不気味です(埼玉県知事とその娘の経済事件については、成人の犯罪なので同様のコメントを発表しないのでしょうかね? 私は埼玉の事件こそ許されないものだと思うのですが)。凶悪犯罪の度に顔をもたげるさまざまな心ない言葉は、あの事件とこの反応は、まぎれもなく同じ社会の言語・思考だと思い知らせてくれますが、やり切れない思いを増幅する以外の役には立ちません。
すべての関係者と教育や子育てに携わる人が、同じような無力感に捕らわれているのではないかと思うと、さらに陰鬱な気持ちになります。

個人的には、ここからが大切な覚え書きです。が、世間様には関係ないかも。すいません。
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小5のムスメは、学校でも家でも、いい子であろうとしています(ときどきボロは出ますが、それは本人にはかなりストレスじゃないかと思っています)。人間、ずーっと、あらゆる面でいい子でいるなんてのは、至難の業です。何年も前、幼稚園に通っているころから、こいつは「よい子であろう」という意識が強い、これはいつかプッツンくるぞ、いくつで、どんな風にくるだろう、と気をもんでいたりします。
よい子でいてくれることは、そのときは親にとっても学校にとってもありがちのですが、それだけで安心するわけにはいかないはずです。上手に大過なく過ごすことが大事なのではない。逆に言えば、世間が許さないほどの悪いこと(≒犯罪)さえ犯さなければいいってもんでもないはず。

世間とは多少折り合いが悪くても構わない。加減ってもんもあるけど、まあ、実はかなり折り合いが悪くたってなんとかなるよ。
自分が信じられる価値があるならば、それを守って生きよう。でも、我慢しなければならないことは必ずたくさんある。世に出れば、理不尽な思いもたくさんしなければいけないだろう。背を向けてしまえば済むことも多い。でも、変えなければならないことには、ちゃんと声を上げよう。誰も声を上げなければ、なにも変わらない。
ナニかが100%できなくても気に病むな。完ぺきなヤツなんかいない。天才とか才能があるってヤツなんか、だいたいはソレ以外のところでは社会生活に適応できてないんだ。ましてやオレたちは凡人だ。簡単にうまくなんかいかない。人並みの成果を挙げようと思ったら、頑張るしかないのだ。好きなことなら、自分が値打ちがあると信じていることなら頑張れる。
努力が続かない? うん、そんなこともある。凡人だからな(便利な言葉だ・笑)。そんなときは休めばいいんだ。なに、少々休んだって大したことはないさ。だいじょうぶ、おれたちが地球を回しているわけじゃない。そこでヘコタレちゃう方が、後で悔やむぞ。クタビレたときはちょっとぐらいワガママになれ。

お金だとか地位だとか、そんなものはあんまりなくったって、自分にとって大事なものさえなんとかなってれば、大して不都合は感じないぞ。そうだな、たとえば「今日は出かけなきゃいけないのに雨だな」っていうぐらいの困り具合でしかない。しのげます。
いや、お金でも地位でもモノでも、あれば便利だよ。いつもよりもよけいに楽しいかもしれない。でもね、楽しいもんは足りないぐらいがちょうどいい。大好物の食べ物も、満足するほど食べたらもういらなくなる。そしたら、大好物がひとつ減るかも。好物はいろいろあった方が人生は楽しみが多いぞ。

たとえば、そんな風に。
本人が、どんな風に生きていけるか、きっと常にそこを見て行かなければいけないのでしょう。
子どもたちが、「ほどよい開き直り」をつかんでくれるまで、親の気持ちは休まらない。だけど、きっと、本人に「なにが大事か」が伝わっていれば、それで自分でちゃんと生きて行く道を見つけるのだ。

実は、「なにが大事か」をひとつだけ、っていうと、その答えには、僕も達していない。
ウチではカアチャンと、「基本ルールは3つだけとかじゃないと、複雑すぎてアカン」なんていう話はしているのです。で、「ウソをつかない、誤魔化さない、人に迷惑をかけない」なんて言っていたりはする。どれも似たり寄ったりだけど。
ひとつだけならこれかなと思っているのは「誤魔化さないこと」だ。人に対しても自分に対しても、できる限り、約束を破らない、裏切らない、嘘をつかない、そんなあれこれが見えるから。これさえあれば「自分がよければそれでいい、ってことでもない」というのも導き出せる。できなさそうなときには、そうと気づいたらすぐに表明する。それもできなかったときは、謝るのだ、ひたすら、心から。それしかねえべ。

とか言いながら、「約束を破らない」ってのが、まあ、このオヤジには全然できてなかったりするのだ。だから年じゅう謝ってます。ま、だから気が進まない話は引き受けなくなったり、約束はできないと言ったり、ってことにもなるのだ。約束しなければそれでいいってもんでもないのだけど。

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などということを考える一方で、我が子が犯罪の被害者にならないためにはどうすべきか、なんていう課題もあるのだ。
カアチャンはCAPなんて講座にときどき行ったりもしている。1回目は私も行った。
CAPについて、かいつまんで知りたい場合はこちら。「子どもが暴力から自分を守るための教育プログラム CAP 」とか「ふらっと特集-子ども虐待-」が短くてよろしいかと。

ややこしい時代になった? いや、敗戦直後の焼け跡で子どもを育てることに比べれば、ひょっとするとそんなことはないのかもしれない。

Posted: 火 - 7月 15, 2003 at 03:47 午前            


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