「葬式仏教」と「戒名の値段」


「葬式仏教」なんて言葉がある。戒名の位の高さは包む金額次第だなんて話もある。
一般にそうだとは思うのだが、必ずしもそうとは限らないということを二十数年前にオフクロの葬儀で知った。

■破格だったオフクロの法名
うちの宗派は真宗大谷派っていうんだったかな。お東さん=浄土真宗の東本願寺派だったと思う。別にオレが仏教徒だってわけじゃないんだけどね。この宗派では戒名じゃなくて法名(ほうみょう)という。機能は同じだと思うんだけど、位牌がないとか、線香を立てないで寝かせるとか、仏壇に入れるもんだとかが宗派で違うんだよね。

で、うちのオフクロの法名をつけてくれたのは米子のお寺さんだった。法名は「なんちゃら院かんちゃら清澄大姉」とかいうのだったと思う。
葬儀をしてくれた近所の住職が言うには、これが破格の法名だったらしい。しかし、高い金なんか払ってません。法名の相場なんかわからないので、率直にどうしたらいいのか聞いたのだが、お寺さんはいくらでもいいと言う。わからんなりに何万円か送ったのだと思う。
その近所の住職とオヤジは後述のようないきさつを含めてあれこれ話をして、両者ともに驚いていました。住職は痛く感じ入ったようす。オヤジはもっと出すべきだったのだろうかと気にする。しかし住職は「そんな必要はない。お寺さんの気持ちなんだから」と言う(ってことは、きっと相場よりもてんで安かったんだよね(^^;;)

実のところ、米子のお寺さんには、ひとかたならずお世話になっている。それに比べると、こっちはろくになにもしていないに等しい。檀家が敬虔な仏教徒とかどうとかいうことじゃなくて、単に普段から寺に礼を尽くしているかどうかなんだろうな。「礼を尽くす」といっても、あの律儀な律儀なオヤジが盆暮れの挨拶を欠かさなかった、つうても、お中元・お歳暮・年賀状ぐらいだけど、そんだけなのだ。もっとも30年ほどの長きにわたるのだが。

それで、米子の菩提寺は、オヤジの礼に応えてくれた、ということだったらしいのだ。お寺さんにしてみれば、それが檀家が「功徳を積む」ということなんかね。あんときは、へええ、と、びっくりしたな、もう……。

■少しずつ積む功徳と、そのとき払いの功徳
「葬式仏教」と呼ぶけれど、これは寺だけではなくて檀家も「葬式仏教にしている」んだなあ、というお話でもあるのであります。
しかし、菩提寺なんてもんがなければ、葬式を出すときしか用事がないから、こうはなかなかなりようがない。そしたら功徳も「そのとき払い」で積むしかない、ってことなんでしょうなあ。

「そのとき払いの功徳」はご都合主義的ではある。お寺さんが決然と「金なんかいくら積まれても、昨日今日のおつきあいではこんぐらいの戒名しか出せません」と言えばいいとか、「そもそも戒名に位階の高さなんかがあるのがおかしい」という意見もあるに違いない。
でも、お寺さんだって、心づくしをしたいという人の内心までを見抜いて門前払いをするのだって、不本意に違いない。縁なき衆生を放置するようなもんだものね。また、ちゃんとつきあってくれた人には手厚くしたいだろう。長年のおつきあいの不義理をなんとか取り返せる算段が、お金しか見つからない。金じゃなくて体で、なんて言っていきなりハードな勤行とかやらせるっつう方法もあるかもしれないけど、やるほうもやらせる方も、それで気が済むんだろうか。
この場合、金は方便だと考えるしかないのかもしれない。

■米子のお寺さんとのいきさつ
先に「米子のお寺さんには、ひとかたならずお世話になっている」と書いた。こういう経緯だ。

我がオヤジの父・英四郎と母・操(オレの祖父母に当たる)は、それぞれ敗戦の翌年と翌々年に他界した。墓をもたなかったので、遺骨は鳥取・米子の菩提寺に預けた。このころ住んでいたのは東京・代々木上原のはずだ。米子は英四郎の出身地であるに過ぎず、オヤジは子どもの頃に行ったことがあるだけだったのではなかったか。
オヤジは大正15年生まれ。敗戦の年には数えで二十歳。二十歳そこそこの若さだったオヤジが思いつく寺がそこだけだったのか。いや、そんなことはないか。葬儀は出したのだろうから、そのときに世話になった寺に預ける方法だってあったはずだ。とすると、誰かが米子に預けることを勧めたのか、オヤジ自身が考えたことなのか。

いずれにしても、両親が他界した後、大学を卒業すると間もなくオヤジは青森の弘前大学に職を得て引っ越し(正確に何年のことなのかは、わからん。オヤジは高校が旧制東京高校で、大学は東京大学。オレとは大違いとかいうことはさておき、この東京大学って新制なのか旧制なのか、どうなんだろう。オヤジは「オヤジ(英四郎)が生きていたら哲学に進むことは許されなかっただろう」と言っていたことがあるから、少なくとも専門課程?に進んだのは英四郎の没年である昭和21年よりは後だよな。オレと違って留年なんぞはしてないと思うが、まあ何年に卒業したのかはよくわからん)。
オヤジが関東に戻ったのは、30年近くも後の昭和51年。鎌倉に墓を建てたのは、さらにもう少し後だと思う。

オヤジが菩提寺に顔を出したのは、お骨を預けに行った次は、おそらく墓を建ててお骨を引き取るとき。30年ほどもお骨を米子に預けっぱなしで顔も出せなかったわけだ。お骨を引き取るときは、オヤジとアニキが訪ねたらしい(オレは高校生かな。記憶にないのだ)。

その間、お中元・お歳暮・年賀状、それだけのおつきあいだったわけだ。ううむ。

幸い、まだオヤジが健在なので米子のお寺さんのことは、今もオヤジにまかせきりだ。遠からず、オレが盆暮れの挨拶を引き継ぐことになるのだろうと思う。

■米子の記憶
これは後日談になるけれど、オレが初めて米子の菩提寺を訪ねたのは、オフクロの埋葬が済んでから。オフクロの命日は確か9月4日だけど、お寺に行ったときも夏で暑かったから、その年のうちではなかったかもしれない。一周忌も済ませて、2年めだったかも。
もちろんオヤジとともに挨拶に行ったのだ。が、下にも置かぬもてなしに驚いた。

到着するなり学生だったオレにまで丁寧に丁寧に挨拶をしてくれて、お茶(「お薄」と言ってましたな)を立ててくれて。過去帳を見せてくれて「お父さんには大変にお世話になってるんですよ」みたいな話もしてくれる。お寺の墓所に案内してくれて「この辺がご先祖のお墓ですね」と言われた辺りには、同じ亀尾という名字だけじゃなくて屋号なのか亀屋だとかいう似たような名前のお墓がたくさん。「みなさん、ご親戚じゃないでしょうか」って言うんだけど、江戸時代とかで古すぎて、誰がどれだかまったくわからん。過去帳もそうなんだけどね(^^;)

オレが米子は初めてだと知ると若住職がクルマで観光案内してくれる。伯耆大山とかね。宿が近所の皆生温泉に手配されていて、クルマで送り届けてくれる。宿ではむやみに立派なメシがたくさん出て来て食べきれない。こりゃあ高いぞ、お寺さんとこちとらの金銭感覚が違うんだな、ちと弱ったなあ、でもまあいいか、なんてオヤジと話していたら、勘定をしようとしたら金はいらないという。宿曰く「お寺さんからもう十分にいただいている」。
なにしろ忘れられない一泊二日の旅となったのでありました。

しかし、金だけで言ったら、三十年分のお中元・お歳暮や法名のときのお礼だけでは全然足りないはずだよね。今思うと、みなさまの「そのとき払いの功徳」でもてなしていただいたのかもしれません。

ありがたや、ありがたや<うわ、抹香臭っ(汗

Posted: 火 - 8月 7, 2007 at 12:17 午後            


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