報道や出版を鵜呑みにするなかれ、という「余談と予断の多い」お話。

99.2.19加筆

TVの情報は信用ならない、雑誌や新聞だって、どこまで信用できるかわからない、というのは「商業原理」ってのを考えたことがある人なら、ある程度うなづいてくれるだろう。
これは「作る人の意向が必ず入る」ということであり、その「意向」というのは広告主や社主という「お金を出す人」の意向だったり、売る役割を担う営業サイドの「どうすればたくさん売れるか」という考え方だったりする。
これは報道機関でも営利目的の団体である限り同じことだ。なにを採り上げてなにを載せないかという選択がされるところで、必ず
送り手側の意思が入ってしまうのだ。

書籍だって例外ではない。広告主はいないかもしれないけれども、営業上の戦略ってモンはある。書籍と同時に雑誌も出しているところなら、雑誌の広告主の意向だって気になる。

書籍に、より売れそうなタイトルをつけるのは、必ずしもその本の内容に自信があるからばかりではなくて、当然だが、たくさん売れてくれた方が儲かるからなのだ。

極端に言ってしまえば「ある程度のイカサマは報道・出版にはつきもの」なのだ。ありのままよりも、もっとよさそうに見せる努力をしない売り手はいないからね。消費者にとっては、けっこうな額のお買いものなのだろう(というよりは、「本なんかにそんなにお金は出せない」なのかな。流行のモード[←死語かな(^^ゞ]もTVゲームも買わなきゃいかんし、食事の質は落とせないし[と言って冷凍食品やレトルト食品を買うんだろうか?])。

ところで、
ふつう実用書の原稿は、「良心的」あるいは「頭の固い」編集部なら、いわゆる「その筋の人」に依頼する。この場合、構成も方向だけは編集部が示すにしても、執筆者が決めることになるものが多い。この手の執筆者は「著者」になり、印税契約を結ぶことが多いので、「それなり」に気を入れて書くことになる。

「なにかちがうこと」を考えている編集部は、ぜんぜんその道に関係ない人にてんこもりの資料を渡して「これでまとめてね」という頼み方をする。
資料といっても、やはりそれは市販されている類書である。理論書や基礎をしっかりと押さえた人の書いたものとは限らない。これでは縮小再生産しかできないではないか。
構成は編集部で作り、「この順序と分量で書けばいいんだから、ね、簡単でしょ」というわけである。
素人が書くわけだから、当然監修をつけることになる。後で、この、監修を頼まれた人が苦労するのであるが、たいてい原稿が遅れるか編集作業が遅れて、監修者には十分な時間が与えられない。
こっちのケースでは、原稿は「買い取り」であって印税契約はない。監修者もである。カバーには監修者の名前が出るのであって、執筆者の名前は出ない。
少なからぬ数の本がこうして作られるのだ(作れちゃうんだよ、また、いくらでも。で、これが作りがよければ
い〜っぱい売れることもあるのだ)。なんか怪しげな団体名が著者になっている本はコレだな。あたしが関わってきたのはこんなもんだった。

実用書を買おうという方は、何者が作った本なのかを見極めて買わないと、内容の薄いものをつかまされることになる。簡単な「信用調査」は巻末の「奥付」を確認することである。何者だか知らない名前でも、「著者紹介」があればそこでわかるよね、少しは。
ま、手軽に入手した「実用的な」情報は、「それなり」の実用性でしかないかも、ということなのだ。が、TVからダダ漏れしてくる情報になれている現代人は、この「簡単な信用調査」をしないからね。
昔の人は、どうだったんだろ。やっぱり奥付見たんだろうね。その名残が「著者紹介」なのかな。
TVや雑誌の信用調査はどうすりゃいいのか? んじゃ、
Webはどう思います? カシコイ大人は自分で考えようね(^◇^;)


送り手側の意思が入ってしまう
当然だが、「○○に関する報道がない」ということは、その○○という事象がなかったということと同義ではない。例えば、市民運動などによるデモなどの報道はなくても、夕刊のない日曜日にはよくやっておるのだよ。
これは「政治団体によるデモ」にはニュースバリューがない、という報道側の判断(と、「このデモは、市民団体だって言っているけど、ウラで政治団体が糸を引いてるのさ」という予断)が働くから報道されていないに過ぎない。
したがって、新聞社などがキャンペーン的に仕掛けようとするときは、逆に「政治団体とは関係のない一般の市民による運動」というカモフラージュがなされる。実際には特定の政党と結ばれて仕組まれている場合でもだ(いや、その場合は一生懸命その痕跡を隠すんだけど)。
こうした操作によって「ニュースバリューがある」ことになるのだ。

ある新聞は報道しているが、ほかの新聞は報道していない運動、なんていうのは、この「キャンペーンがらみ」の可能性を疑えるだろう。某全国紙は得意とする手法である。キャンペーンを始めようとするときに、一部の市民団体の傍流になって腐っているヒトなんかを担ぎ出すのだ。神奈川の水質問題(農薬による上水汚染)なんかは、A紙がコレをやってくれたと某消費者団体に教えてもらった。
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たくさん売れてくれた方が儲かる:
もっとも、今時はそこそこ売れてもひとつも儲かりはしないのだが。ほとんどの本は、初刷を売り切ったぐらいでは赤字である。
というか、本を作り続けることさえままならないエラク困った状況にある。本作りの予算は10年以上前からほとんど据え置きなので、印刷費や紙代の高騰のあおりを食って編集費は落ち込むばかりなのである。
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本ナンカにそんなにお金は出せない:
買い手としては本は安いと言い切れないけど(欲しくても買えない本が山ほどあるし)、作り手としては本ってメチャメチャ安いと思う。
作る工程や手間暇を考えると、そして一般の工業製品のロット数と本の部数を比較して考えると、本の価格は優に今の数倍はしなければ今後、出版界は維持できないだろうと思う。だけど、そんなことになったら、誰も本が買えなくなってしまう……。
これは自分を棚に上げてしまうと、“教養人”のステータスがえらく低い日本ならではの現象なんだろうね。知的労働の対価と肉体労働の対価にさほど差がないという悪平等……そのおかげで手抜きで勉強ってものをしない知識階級が存在できてしまう矛盾。出版社だって、執筆者や編集者、ライター、デザイナー、カメラマンの労働対価を人月計算したがるんだモン。「知的生産」と位置づけていないんだわさ。
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あたしが関わってきたのは:
これは編集サイドにいたときの話ね
[参照]。今は、こういう本の編集は引き受けていません。こういう本を書くのも原則としてパス。場合によってはカミサンに回してます(^◇^;)
では、このところ私が書いているような原稿は前者なのか。どっちかとゆーと、後者のはずなんだけど、ちょっとようすがちがうところもある。これはあたしが書き手としては「そっちのプロパーの駆け出し」と位置づけられているということだろうけど、こんな具合になるのだ。


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